Heart form

 ≪おりおりに綴ったブログより≫ 


 想い

桜峠を降り下った小路からの夕焼け













今まで とても大切に想っていた対象への
想いを断ち切るのは とても難しい。
断ち切るのではなく、
新たなとらえ直しをするだけなのだと
頭では分かっているのに
こころが どうしても受け入れてくれない。
失ってしまったのだと
もう、この手の中には二度と戻らないのだと
繰り返す声が聞こえてくる。

温かく柔らかいぬくもりが
両の手から滑り落ちていく悲しみは
いくつになっても こころを縮ませる。
世界が色を失ってしまったように
自分が立っている場所も 曖昧になってしまう。
自分の中の愛を感じなおすまでは
注いだ想いに比例するだけの
時間が必要なのかもしれない。


新たな意味

散歩路からの夕焼け



















しばらく会っていないひと、話してないひとのことが
何故か急に気になる「瞬間」がある。
その「瞬間」には、きっと、遠いどこかの空の下で
その人も同じように想ってくれているんだと、どういうわけか そう思う。
本当なら 確かめ合わなければ伝わるはずの無い
そんな些細な「瞬間」の積み重ねが、
かけがえの無い「愛」を育むためにあったのだと 
今の私は 信じれる。

それは、今この世に「生」を持たない人との間にも通っている気がする。
逝ってしまった愛しいひとたち。
失ってしまった、二度と触れることのできないそれらの生命も 
どんな生きざまであろうと、死にざまであろうと、
その人の意図に関係なく
今、生きている人の中に 息づいて新たな意味を持つ。
生きているときは自分が生まれた意味など
誰にも分からないのかもしれない。


始めて創ったブログからの抜粋だ。
ほんとうに僅かな筆の跡しかない。

そうか、そうかあ、書けなかったんだなあと
その頃の自分を想ってみる。


ちゃんと生きてきたはずなのに
そこに、自分は確かに居たはずなのに
その頃をいくら思いだそうとしても 何だかぼやけて色が無い。

いま、再びブログを創る。

いま、わたしは「私」を生きているだろうか?

2011年早春

2003年~2010年までのブログは コチラ











父を亡くして何年になるだろう。
右半身麻痺・言語機能を失っての10年だった。
そのころ父に宛てて書いた詩である。





冬 の 陽

縁側に  冬の陽があふれている
言葉を失って久しい 父の右手は 硬く
陽をあびて  てら てらと
不自然に 白い

雪解けの遅れた年のその日 父は
器用な手つきで 竹ざおを作ってくれた
一夜にして 息子を失った男が
久しく持たなかった釣竿に 糸を垂れ
娘の父として 座っていた

竹ざおは細く短かったが
わたしの手に合って よくしない
風が やさしい さざ波をたてた

ぎこちなくはしゃぐ娘の傍らで
黙したまま  水面を見続ける父の
横顔を盗み見ながら
少女は 少女であることを 疎んだ

父よ、 あなたは
与えすぎた事に 唇を噛むより
哀しいいいわけに 耳を傾けながら
信じたものを許す方が正しいのだと信じていた

でも わたしはあの頃
あなたの そのおだやかさを 憎んだ
愛されていない おびえが
いつも わたしの傍にあった

引き寄せた 無機質な右手の冷たさに驚いて
思わず 顔をうずめると
父の胸は 陽だまりの子犬の匂いがした

左手は動く
その手で いく度も いく度も
いく度も いく度も
飽くことなく父は わたしの頭をなでる 背をたたく
父の中の はるかな川辺で
あの日の 幼い少女が
竹ざおをかかえて 泣いていた


それでも  時に父は
わたしを忘れる
見知らぬ人を見るように
首をかしげて わたしを見る


私は
ゆうべ 幼子をねむらせた ふところに
この もの言わぬ人を抱いて
冬の午後を 語り明かそう
私が これからも
信じたものを許して  生きていけるように